竈門炭治郎の家は奥多摩のどこに? 多摩川の源流で考察する鬼滅の刃
東京都の西方へドライブに行ってきたよ。

新宿駅の高層ビル街を基点にする青梅街道をひたすら西へ向かえば、車はいつしか山に入り、奥多摩湖畔を走る。
ここも東京だが、このあたりまでくると丘陵にしがみつくような家屋や、猫の額ほどの段々畑の景色が、まるでネパールの田舎に来たみたいな感じ。この先にあるのは甲斐との国境だ。
炭治郎の出身地は奥多摩
竈門炭治郎の出身地とされる雲取山は、奥多摩湖から北へ6kmほどの稜線にある。家の場所はそのふもとのどこか。たぶん炭治郎くんも家族もこのあたりを歩いたことがあるだろう。
ただし奥多摩湖は昭和37年に完成した人造湖だから、若き日の炭治郎くんは見たことはないはず。もしかしたら晩年に故郷を訪れて、岸辺にたたずんだかもしれないね。大正時代まで、ここには小河内村があったがダムの完成とともに湖に沈んでしまったそうだ。
炭治郎の家は雲取山のどこにあったのか?
奥多摩と奥秩父の眺望。下方に見えるのが奥多摩湖。写真右側の主稜線上に、すこし飛び出ている平たい頂が東京都最高峰の雲取山(くもとりやま)2017m。

雲取山は、東京都・山梨県・埼玉県の1都2県の境でもある。また、雲取山2017m・妙法が岳1332m・白岩山1921mを合わせて三峰山(みつみねさん)ともいう。
炭焼きを生業とする竈門家の家が、雲取山の頂上付近にあると思っている人が多いようだが、炭焼職人の自宅は人里からそう遠くもなく近くもないところにあるもの。
そして炭焼き小屋は、炭の原料となるナラノキやスギが標高1500m以下に多く分布することからふつうはそれ以上標高が高いところにはない。
鬼滅の刃の物語から判明している、竈門家の自宅に関する情報。
- 公式Bookによれば、出身は東京府雲取山
- 自宅は山中だが日帰りで町へ徒歩で炭の販売にでかけられる
- 途中まで車が通れる広さの道がつくられ、炭治郎を泊めてくれる人家もある
三峰山の一角、妙法が岳1332mに、炭焼平という炭焼き釜の跡地が残っている。
竈門家が炭焼き釜をどこにいくつ持っていたかは不明だが、ここ炭焼平の釜を利用していた可能性はある。しかし自宅もこのあたりにあるとしたら炭治郎くんは埼玉県民となってしまう。したがってここに自宅があるということはありえない。これらのことから推定される範囲は絞られてくる。稜線の地形からみて雲取山の東麓しかない。

おそらく竈門家は、日原から日原川を少しさかのぼる位置にあった。上の立体地図でいえば「雲取山」と「日原」の中間あたりであろう。
現代の奥多摩町から日原への道は、舗装されていて歩きやすい。竈門家の家はこの先のどこかにあった筈。日原の鍾乳洞は、ぼくは高校生の頃に訪れたことがあるはずだが、どんなところか覚えていないな。
多摩川の源流、小菅村に到着
さて、奥多摩湖を過ぎて車を走らせるともう人家はほとんどない。青梅街道は曲がりくねった狭い道になる。現在は舗装されているから楽に車が走れるが、かつては徒歩のトレッキングルートという感じだったことだろう。まもなく「山梨県」「小菅村」と書かれた簡素な標識が出迎えてくれた。

国境からさらに青梅街道を10分ほど走って、山梨県小菅村の集落に到着。

大正時代と変わらない風情である(そんなことないか)。炭治郎が家から炭を売りにいった町がどこなのか、物語に町名が出てこないから分からなくて、たぶん奥多摩町なんだろうけど、もしかしたらこっちの小菅村かも、と思わなくもない。小菅村は多摩川の支流の源流があって、街道沿いに温泉宿がいくつか並んでいる。一泊旅行にきてもよかったかも。
まずは村内を散策してみる。



村外れには、いっときは国宝に指定されていたこともある鎌倉時代の古刹、長作観音堂があるそうだ。そっちは遠いからあとで行ってみよう。おなかが空いたのでランチを食べに、道の駅へ。

道の駅 こすげ の石窯で焼くピッツァがわりと有名らしくて、今日はこれを食べに来たのだった。注文したのは小菅産ヤマメのアンチョビときのこのクリームピザ。

小菅村はヤマメが名物だそうだ。それなら、ヤマメをトッピングしたピッツァを味わおう、と思って注文したのだが、出されたピッツァにヤマメは載っていないみたい…? 生地はパリっとしていて、チーズはふんわりとして、いい触感だった。
食べながらよくよく見たら3mm四方の小さなカーキ色の小片がチーズの上にいくつか載っている。どうやらこれが「ヤマメのアンチョビ」らしいと気がついた。ヤマメの味はしないくらい小さいけど、ピッツァはおいしくいただきました。
食後のデザートは小菅ショコラ。道の駅 源流レストランのサイトはこちら
ピッツァを食べたら、眠くなってきた。炭水化物はどうしても眠くなる。標高が高くて寒いし、今日はもう家路に就くとするか。長作観音堂はまた次回お参りに来ることにしよう。
再び東京へ
というわけで来た道、青梅街道を戻ることにした。東京都に入るときに「東京都」の標識が午後の陽を反射して、輝いて見えた。

鬼舞辻無惨が竈門家を襲った際、彼はどういうルートでここまで来たのだろうか。大正初期は、青梅線が日向和田駅まで敷かれていて、新宿駅から立川駅経由で一日に6便の列車があった。
鬼舞辻無惨は終点の日向和田駅で汽車を降りてから、青梅街道を日原までの24kmほどを歩いたのだろうか。
それとも反対側の甲斐からはるばる歩いてきたのだろうか。もしそうなら、この峠を越えたことだろう。当時のこの峠はトレッキングルートみたいな感じで、ここから「東京府」という標識もなかったんじゃないかな。
あるいは、空間を飛び越えてとつぜん雲取山に現れたのかもしれない。そうだったとしても、竈門炭治郎くんは炭を売りにこの道を歩いたことがあると思う。
鬼滅の刃、竈門炭治郎くんの実家に関する考察でした。
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