侍の子孫たちが暮らす町がスペインにあった【コリア デル リオ】日本人歓迎

約400年前にスペインを訪れた伊達政宗の遣欧使節団の子孫が、アンダルシアの地でいまも暮らしているという。大河グアダルキビル沿いのコリア デル リオという人口3万人の町に。

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慶長18年(1613年)、陸奥国石巻を出港した遣欧使節団は、翌慶長19年、ほぼ一年かけてスペインに到着し、当時税関のあったこの町に数日間滞在した。 一行は伊達政宗の家臣支倉常長が率いる約30人。現在のコリア デル リオには支倉常長の銅像がたっている。

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一行はここからローマへ向かった

遣欧使節団はここから陸路でセビーリャへ向かい、大歓迎された。翌年にはマドリードでスペイン国王に謁見し、さらにはローマへ向かった。

支倉が率いた使節団は日本人が初めてヨーロッパに正式な外交団を送るという歴史的な出来事であるにもかかわらず、その目的は意外なことにはっきりとわかっていない。大坂冬の陣の前に編成された使節団であるため、いまだ天下取りの野望をもっていた伊達政宗がその布石としていたのではないかという説もあるし、逆にスペイン帝国の宮廷内闘争に利用されていたという説もある。

いずれにせよ遣欧使節団は日本国の威信をかけて多大な資金を投入して編成された。そして一行はヨーロッパ各地で大歓迎されたものの最終的には成果を挙げられずに帰国することになった。その理由もよくわかっていないが、徳川幕府の鎖国政策とキリスト教禁令が関係したともいわれている。

元和2年(1617年)、支倉一行はコリア デル リオを経て帰国の船に乗った。帰国申請をしたのは19名だったとされ、正確な数はわからないがこのとき5〜9人前後の日本人がコリア デル リオに残ったといわれている。

ハポン姓を名のるスペイン人

コリア デル リオはアンダルシアの州都セビーリャから南西へ直線距離にして約12km。ローカルバスで約45分。 人口3万人の町だから大通りは結構活気がある。

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市庁舎にはなんと日の丸が掲げられている。

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スペイン広しといえども市庁舎に日の丸が掲げられているのはこの町だけであろう。観光地の大型ホテルに日の丸がかかっているのはよく見るが…. 市庁舎の一階には日本語で観光案内所の看板もあった。

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しかし、おそらく訪れる人がほとんどいないのであろう、残念ながらそのドアは閉められていた。そこへ、たまたま通りかかったおじさんが話しかけてきて、市庁舎の中に案内してくれた。市の役人は観光案内をしてくれるというほどではなかったが日本語のパンフレットや地図をくれた。

続いておじさんは、市役所の向かいの図書館にぼくを案内してくれた。図書館の司書は名前をハポンといった。

ハポンとはスペイン語で日本の意味。英語のジャパンと同じ。 この町にはハポンという姓を持つ人がおよそ600人いる。

記録によれば最初にハポン姓が確認されるのが17世紀中ごろ。支倉使節団が帰国した後のことだ。これらのことから、ハポン姓は支倉使節団の随員の子孫であろうとこの町の人は考えている。

スペインでいちばん日本人に好意的な町

おじさんや司書さんと別れて、グアダルキビル川に向かって歩いていると、ここでも通りかかったおじさんにどこへ行くんだと話しかけられた。侍の銅像がある公園へ行くといったら道順をアンダルシア人らしい大声で説明してくれた。

スペイン人はたいがいぶっきらぼうなものだが、この町は例外だ。コリア デル リオの人は目が合うとにこっとしてくれる人が多い。それというのもこの町の少なくない数の人が日本人の子孫だとされているからだろう。 そうこうするうちにグアダルキビル川についた。

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7月の強い直射日光がふりそそぐ景色は、まるでメコン川のよう。まったりとした空気につつまれていた。

大河を望む支倉常長像

グアダルキビル川に面したカルロス デ メサ公園の一画に侍の銅像はある。

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はたして、支倉常長像は自身が船に乗ってやってきたグアダルキビル川を向いて立っていた。1992年に宮城県から贈られた象なのだそうだ。

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右手に持っているのは伊達政宗から託された書状。

なぜか鳥居を背にしている。ヨーロッパの人にとって鳥居は日本の象徴だ。 支倉常長像前の道はPaseo de la Embajada Keicho(慶長使節団通り)と名付けられていた。

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鳥居の上では鳩の夫婦(?)が羽を休めている。

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支倉常長は仙台藩藩士ではないよ

余談だが、支倉常長の身分を仙台藩藩士とする記述をよくみる。

しかしこの時代の日本に藩という概念はまったくなかった。藩という概念は支倉が生きた時代から200年ほど後にできたものだから「藩士」と書くのはおかしい。江戸初期の人物の身分表記なら「伊達家直臣 支倉常長」とするのが適当だろう。

おそらく支倉自身は自身を「松平陸奥守家来 支倉六右衛門長経/まつだいらむつのかみがけらい はせくらろくえもんながつね」と名のっていたことだろう。常長は諱で本人が生前にその名を語ったことはないのではないかとされている。六右衛門は字。ようするに「仙台藩士支倉常長」とは後世の人がそう呼んでいるだけで当人が自称したことはない
なお松平陸奥守は伊達政宗の官位。

また、ローマには Hasekura Felipe Francisco Rokuemon Nagatune という支倉の洗礼名もついた署名が残されている。

白い家並の町

町の中心にあるサンフアン通り。33段の階段を支倉も登ったことだろう。

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階段の上に建つ小さな教会はエルミタ デ サンフアン バウティスタといって、支倉使節団が石巻を出港したときに乗ったガレオン船と同じ名前。支倉常長はこの教会に滞在した。

支倉は沈着で慎み深く、知的で、高潔な人物だと行く先々で高い評価を得ていた。伊達政宗はさすがに人を見る目があり、スペイン国王への大使にふさわしい人物を家臣から抜擢したことが当時の記録からうかがえる。

使節団一行のうち伊達家の家来は全員帰国したが、それ以外の武士で8名前後の者がスペインに残った。もっとも腕の立つ武士であった瀧野嘉兵衛は幕府の間者だったとされるがその彼も帰国せず姿を消した。

残留した日本人がコリア デル リオに住んだのは、偶然にもこの町が日本から使節団に随行してきたヘスス神父の出身地だったため、地域社会につてがあり生活の展望があったというのが主な理由らしい。武士であった彼らは知性も技術ももち、この地で裕福な生活を築き上げたそうだ。

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炎天下に歩き回って暑くてかなわん。アンダルシアの夏の気温は40度を軽く超える。カルロス デ メサ公園入口近くはバルがならんでいて、エアコンのきいたバルに入った。

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まったくなんでもないフツーのバルだ。 ランチ替わりにタパスを2皿頼んだら結構おいしかった。小イカをまるごと鉄板で焼いたのと、フラメンキン(生ハムとチーズ入りロールかつ)。1皿3ユーロ。味にはこだわりがある店のようだ。

ここのおじさんもやけにニコニコと応対してくれたなあ。 バルの目の前がセビーリャへのバス停だったから、バスが来るのを涼みながらのんびり待つことにした。

コリア デル リオへの行き方・アクセス

セビーリャからコリア デル リオへはローカルバスが2路線ある。

プラサ デ アルマス発142番Coria del Río行き

ひとつは、バスターミナルのプラサ デ アルマスから142番Coria del Río行きのローカルバスに乗って終点で下車。毎時40分発。所要50分。料金1.65ユーロ(約190円)。

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パセオ デ ラス デリシアス発140番Puebla del Río行

もうひとつは、グアダルキビル川沿いの大通りPaseo de las Deliciasにあるバス停から140番 Puebla del rio行きのローカルバスに乗ってコリア デル リオで下車。平日なら15分おき程度に便がある。所要40分。

コリア デル リオの停留所の位置は下図参照。上の写真のバルの前の道だ。ここからグアダルキビル川沿いのカルロス デ メサ公園へは徒歩2分。

140番のルートはこちら。

地元の人はコリア デル リオを単に「コーリア」と呼んでいる。運転手に「コーリア?」と行き先を確認して乗ろう。