侍の子孫が住む町 スペインのコリア デル リオは今も日本人歓迎

スペイン

アンダルシア地方のコリア デル リオという町に、日本の武士の子孫が大勢暮らしているというので訪れてみた。

日本の侍の子孫が暮らしているコリア デル リオの町並み

ハポン姓を名のるスペイン人

コリア デル リオはアンダルシアの州都セビーリャ(セビリア)から南西へ約12km。ローカルバスで約45分。 人口3万人の町だから大通りは結構活気がある。

コリア デル リオの町並み2

市庁舎にはなんと日の丸が掲げられている。

コリア デル リオの市庁舎

スペイン広しといえども市庁舎に日の丸が掲げられているのはこの町だけであろう。観光地の大型ホテルに日の丸がかかっているのはよく見るが…. 市庁舎の一階には日本語で観光案内所の看板もあった。

コリア デル リオの観光案内所

しかし、おそらく訪れる人がほとんどいないのであろう、残念ながらそのドアは閉められていた。そこへ、通りかかったおじさんがぼくに話しかけてきて、市庁舎の中へ案内してくれた。市の役人は観光の案内をしてくれるというほどではなかったが日本語のパンフレットや地図をくれた。続いておじさんは、市役所の向かいの図書館に案内してくれた。図書館の司書は名前をハポンといった。

ハポン Japón とは、スペイン語で日本を意味する。英語のジャパンと同じだ。 この町にはハポンという姓を持つ人が約650人いる。

スペイン人の姓は、日本人の苗字と同じく、祖先の出身地に由来するものが多い。ハポンという姓ならば先祖は日本が出身だと受けとられる。

記録によれば最初にハポン姓が確認されるのが17世紀中ごろ。それより70年ほど前に日本からの公式使節団がコリア デル リオに滞在し、随員の一部が帰国せずに残留したことから、ハポン姓は日本人の子孫であろうと考えられている。

支倉常長が率いた使節団とは

慶長18年(1613年)、陸奥国石巻を出港した遣欧使節団は、翌年、ほぼ一年かけてスペインに到着した。当時税関のあったこの町に上陸し、数日間滞在した。 一行は伊達政宗の家臣支倉常長が率いる約30人。

現在のコリア デル リオには支倉常長の銅像がたっている。

コリア デル リオの支倉常長像

日本の威信をかけた使節団

慶長遣欧使節団は、まずここから陸路でセビーリャへ向かい、大歓迎された。翌年にはマドリードでスペイン国王に謁見し、その後バルセロナから海路でローマへ向かった。

支倉が率いた使節団は日本人が初めてヨーロッパに正式な外交団を送るという歴史的な出来事であるにもかかわらず、その目的は意外なことに正確に分かっていない。

大坂冬の陣の前に編成された使節団のため、いまだ天下取りの野望をもっていた伊達政宗がその布石としていたのではないかという説もあるし、それとは逆に、徳川が豊臣に対抗するため西国から遠い仙台に新港を開いて利益を得ようとしていたという説もある。資料がほとんど残っていないため、想像力で歴史の隙間を埋めようとして様々な説が述べられている。

Hasekura in Rome支倉常長 1615年

当時の状況からみて明白なのは、徳川家康はこの計画を強く推進していたことだ。それは、支倉一行が乗り込む新型洋式帆船サンフアン バウティスタ号の建造に江戸幕府の舟奉行が船大工を派遣していることからも分かる。慶長18年(1613年)、完成したサンフアン バウティスタ号は約30名の支倉使節団と、徳川家家臣らの合計140名の日本人、それに約40名のスペイン人を乗せて石巻から出帆した。

なぜ、サンフアン バウティスタ号は仙台の伊達家で造船されたのだろうか。おそらく、マニラとメキシコを結ぶ太平洋航路が仙台沖を通るからだろう。伊達政宗はスペインとの貿易を望んでいたし、スペイン側は長い航海の途中で補給のために仙台に立ち寄りたいと考えていたから、両者の思惑は一致していた。そして、徳川家康もメキシコとの交易を期待していた。こうして、慶長遣欧使節団は日本国の威信をかけて多大な資金を投入して編成された。

マニラからアカプルコへの太平洋航路図

そして一行はヨーロッパで大歓迎されたものの、最終的にはほとんど成果を挙げられずに帰国することになった。その理由もよくわかっていないが、一行がヨーロッパ滞在中に家康が死んで幕府の方針が変わり、キリスト教禁教に積極的な徳川秀忠の意向が徹底したことによるともいわれている。

元和2年(1617年)、支倉一行は再びコリア デル リオに戻り、帰国の船に乗った。帰国申請をしたのは19名だったらしく、正確な数はわからないがこのとき5〜9人の日本人がコリア デル リオに残った

スペインでいちばん日本人に好意的な町

おじさんや司書さんと別れて、グアダルキビル川に向かって歩いていると、ここでも通りかかったおじさんにどこへ行くんだと話しかけられた。侍の銅像がある公園へ行くといったら道順をアンダルシア人らしい大声で説明してくれた。

スペイン人はたいがいぶっきらぼうなものだが、この町は例外だ。コリア デル リオの人は目が合うとニコッとしてくれる人が多い。というのもこの町の人たちが日本とのご縁を感じてくれているからだろう。

町を歩くと所々で日本語を見かける。商店街に、看板に漢字で「理髪」と書かれている美容院があるが、この店を経営する美容師さんはイサベル マリア ハポンさんというそうだ。きわめつけは警察官で、パトカーとすれ違うときに前の席の警察官2人が笑顔を向けてくれた。

この町を訪れる外国人は日本人しかいないだろう(たぶん)。

そうこうするうちにグアダルキビル川についた。

Hasekura 021

7月の強い直射日光がふりそそぐ景色は、まるでメコン川のよう。まったりとした空気につつまれていた。

大河を望む支倉常長像

グアダルキビル川に面したカルロス デ メサ公園の一画に侍の銅像はある。

グアダルキビル川に面したカルロス デ メサ公園

はたして、支倉常長像はグアダルキビル川を向いて立っていた。支倉一行は、地中海からこの大河を遡って、ここコリアデルリオに上陸したのだ。像は1992年に宮城県から贈られたものだそうだ。

グアダルキビル川に向かう支倉常長像

右手に持っているのは伊達政宗から託されたスペイン国王への書状。

なぜか鳥居を背にしている。ヨーロッパの人にとって鳥居は日本の象徴だ。 支倉常長像前の道はPaseo de la Embajada Keicho(慶長使節団通り)と名付けられていた。

慶長使節団通りの標識

鳥居の上では鳩の夫婦(?)が羽を休めている。

カルロス デ メサ公園の鳥居

支倉常長は仙台藩藩士ではないよ

余談だが、支倉常長の身分を仙台藩藩士とする記述をよくみる。

しかしこの時代の日本に藩という概念はなかった。藩という概念は支倉が生きた時代から200年以上も後になってからできたものだ。

「廃藩置県」というフレーズのインパクトが強すぎて江戸時代に藩というものがあったと誤解されているが、藩という言葉が江戸時代におおやけに使われたことは一例もない。藩が設置されたのは1868年、すなわち慶応4年(明治元年)で、明治政府の西郷隆盛らの仕事だったことはあまり知られていない。ちなみに廃藩置県は明治4年。

江戸時代の仙台は「伊達様御領地」であって藩ではない。

江戸初期の人物の身分を表わすなら「藩士」ではなく「伊達家直臣 支倉常長」とするのが適当だろう。

支倉は自身を「松平陸奥守家来 支倉六右衛門長経/まつだいらむつのかみがけらい はせくらろくえもんながつね」と名のっていた。

陸奥守は伊達政宗の官位。
常長は諱(いみな)で本人が生前にそう名乗ったことはないとされている。六右衛門は字(あざな)。ようするに仙台藩士 支倉常長とは現代の人が便宜上そう呼んでいるだけで当人が自称したことは無い。もちろん当時の誰もそう呼ばなかった。

ローマには Hasekura Felipe Francisco Rokuemon Nagatune という支倉の洗礼名もついた署名が残されている。フェリペはスペイン国王にあやかって付けられた名前だ。

Samurai Hasekura Tsunenaga in Rome支倉常長像 油彩 17世紀 アルキータ リッチ筆 イタリア

侍の子孫がミススペインに

1996年のミススペインに輝いたマリア ホセ スアレスさんは、コリア デル リオ出身で、母方の祖父がホセ スアレス ハポンといってハポンの血を引いている。

スペインは大家族なので、みんなで食事をするときにハポンさんが何人も集まってくるそうだ。残念ながら彼女はハポン姓を引き継いでいないが、その出自を誇りに感じていて、日本関連のイベントでよく司会や使節を受け持っているとのこと。

それにしても日本人の子孫は、ぜんぜん日本的な顔立ちをしていませんな。

白い家並の町、コリア

町の中心にあるサンフアン通り。33段の階段を、支倉常長もマリア ホセ スアレスさんも上り下りしたことだろう。

コリア デル リオのサンフアン通りをかつて倉常長もマリア ホセ スアレスさんも歩いた

階段の上に見える小さな教会はエルミタ デ サンフアン バウティスタといって、支倉使節団が石巻を出港したときに乗ったガレオン船と同じ名前。支倉常長はこの教会に滞在した。

支倉は沈着で慎み深く、知的で、ユーモアがあり、高潔な人物だと行く先々で高い評価を得ていた。戦国大名の伊達政宗はさすがに人選がたくみで、スペイン国王やローマ法王への大使にふさわしい人物を家臣から抜擢したことが当時の記録からうかがえる。

使節団一行のうち伊達家の家来は全員帰国したが、それ以外の武士のうち幾人かがスペインに残った。剣豪の瀧野嘉兵衛は一行の様子を監視する公儀の間者(幕府のスパイ)だったとされるが、その彼も船に乗らずに姿を消した。

残留した日本人がコリア デル リオに住んだのは、偶然にもこの町が日本から使節団に随行してきたヘスス神父の出身地だったため、地域社会につてがあり生活の展望があったというのが主な理由らしい。

武士であった彼らは知識も技術ももち、この地で裕福な生活を築き上げたそうだ。ただし全員が恵まれていたわけではなかった。瀧野嘉兵衛は不遇のうちに亡くなったという。

市内エストレージャ教区教会の埋葬台帳には『1708年4月9日、フアン ハポン埋葬。極めて貧しく遺書はなし』とある。このフアン ハポンはいったいどんな生活をしていたのだろうか。

洗礼台帳4番には『1667年11月1日、フアン ハポンの娘を洗礼』と記されてる。娘はどのように父を見送ったのか。洗礼台帳は17世紀初頭の部分がスペイン内戦で焼失したため、現在確認できるのはこの記録が最古だ。

いまも、この町で生まれるハポン姓の赤子には、蒙古斑がみられるという。通常、ヨーロッパ人の赤子には蒙古斑がないので、ハポン姓が日本人の子孫である傍証とされている。

コリア デル リオのバウティスタ教会前の広場

炎天下に歩き回って暑くてかなわん。アンダルシアの夏の気温は40度を軽く超える。カルロス デ メサ公園入口近くはバルがならんでいて、エアコンのきいたバルに入った。

コリア デル リオのバル

ランチ替わりにタパスを2皿頼んだら結構おいしかった。小イカをまるごと鉄板で焼いたのと、フラメンキン(生ハムとチーズ入りロールかつ)。1皿3ユーロ。味にはこだわりがある店のようだ。

ここのおじさんもニコニコと応対してくれたなあ。 コリアはスペインで最も日本人が歓迎される町だろう。バルの目の前がセビーリャへのバス停だったから、バスが来るまでエアコンの風で涼みながらのんびり待つことにした。

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コリア デル リオへの行き方・アクセス

セビーリャからコリア デル リオへはローカルバスが2路線ある。

プラサ デ アルマス発142番Coria del Río行き

ひとつは、セビーリャのバスターミナルのプラサ デ アルマスから142番Coria del Río行き のローカルバスに乗って終点で下車。毎時40分発。所要50分。料金1.65ユーロ(約190円)。

コリア デル リオ行きのバス乗り場

パセオ デ ラス デリシアス発140番Puebla del Río行

もうひとつは、カテドラルから徒歩数分の大通りPaseo de las Deliciasのバス停から140番 Puebla del rio行き のローカルバスに乗ってコリア デル リオで下車。平日なら15分おき程度に便がある。所要40分。この路線のほうがツーリストに利用しやすいと思う。バス停の位置はこちら。

コリア デル リオの停留所の位置は下図参照。上の写真のバルの前の道だ。ここからグアダルキビル川沿いのカルロス デ メサ公園へは徒歩2分。

140番の走行ルートはこちら。

地元の人はコリア デル リオを単に「コーリア」と呼んでいる。運転手に「コーリア?」と行き先を確認して乗ろう。

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Posted by ariga masahiro