ヒマラヤのふもと、チベット村へ救援物資を届ける旅

ネパール

大地震後、いつまでたっても政府の援助が届かない北方山岳地帯の人々に救援物資を届けるために、チベット人有志4人がトラックをチャーターした。4人のうちの1人、クンデクリニックのアムチ(チベット医師)に誘われて、ぼくも車に乗せてもらった。

1日目

自動車道路沿いに壊れた家をよく見かける。

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ラスワ地方に入ると、地崩れの大きさが目立ってくる。
ざっくりと村が消えてしまった。

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5月12日の余震で、ドゥンチェの手前数kmで、自動車道路が長さ2km以上に渡って大規模な地崩れでなくなってしまった。懸命な復旧作業によって5月16日に開通したので、ぼくらはこうしてここへ来ることが出来た。
この辺りは例年雨季に地崩れが多発する場所で、土がもろいのかもしれない。

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ラスワ地方の風景。ネパール人の感覚では、標高3000m以下は丘、標高5000m以上を山という。だからここから見渡す景色はぜんぶ丘だ。

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丘の上の町ドゥンチェ。
標高2000mだから朝夕は涼しい。

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ドゥンチェは被害が少ないようだね。お店も多くが営業している。

九十九折りの道の先に、目的地の町シャブルベシが見える。
国境の向こうのチベットの山々も見える。あれは雪を被っているから、ネパール人の感覚でも山に違いない。

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標高1500mの小さな町シャブルベシ バザール。
通常ならランタン ヒマラヤ トレッキングの出発点として賑わっているこのバザールでは、多くのトレッカー向けロッジの扉に鍵がかかっていた。ざっと確認したところ、現時点では少なくとも3軒は営業していて泊まることができる。

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いろんな団体からの支援物資を満載したトラックが並んでいる。

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赤いバツは「居住不適格。住んではいけない」とされた建物。扉の前で座り込む女性。

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道端の茶屋でチベット人たちがこれからの相談を始めた。

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救援物資をどこにどうやって届けるか、それが問題だ。どの村の人々が救援物資を必要としているのか、カトマンドゥはもちろん、ここシャブルベシでも正確な情報は得られない。救援物資が行き渡っている村もあれば、そうでない村もあるのだが、統一した支援リストがないため、現状がさっぱり分からない。だから被災地へ足を運んで自分の目で確認しなければならない。

ただ、この4人のチベット人たちは、ネパール政府からの救援物資が届かないチベット人被災者を救けるのが目的だから、地域の目星はついている。なぜチベット人被災者に救援物資が届かないかというと、隣国の中国政府が「チベット人を救けないように」とネパール政府に注文を付けているからだそうだ。

チベット人が住むシャブルベシの本村。

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あそこに住む人々にはネパール政府からの見舞金が支給されていないという。「チベット人がこの世からいなくなればいい」と考えている中国政府の意向だが、それを実行するネパール政府もどうかと思う。しかしこれが国際社会の現実だ。

シャブルベシから先への大型トラックの侵入は許可制だが、チベット人たちは許可を得ないで来ているからチェックポストの通過に時間がかかった。結局、チェックポストの責任者の判断で通過させてもらった。

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シャブルベシから4kmほど、渓谷沿いに壊れたロッジがあった。

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ここを基地にすることにして、トラックを停めた。

ロッジは壊れているが、隣の雑貨店からタマンの女性が出てきてにこやかに迎えてくれた。はち切れんばかりの笑顔が素敵だったので「ビューティフル!」と連発しながら写真を撮ったら、すっかり気をよくしたのか、それから彼女はいつもぼくにこの満面の笑顔を見せてくれた。

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トラックから支援物資を運び出した。
30kgの米袋を50袋、塩、薬など。それから地面に寝ている被災者のための断熱マットをロールで大量に運び込んだ。これらすべてが支援物資。奥に見えるのが、雑貨店と壊れたロッジ。

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これらの支援物資が到着したことを近隣住民に伝えて、本日は終了。近隣とは自動車道路から徒歩3〜6時間程度の距離の村のこと。翌朝9時半から配布開始ということにした。

ぼくらにお茶をいれてくれた。

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夜はキャンプファイアー。

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この後、自分たちが持ってきた断熱マットを地面に敷いて、布団を被って星空を見ながら眠りについた。

2日目

朝、ちょうど5時頃に目が覚めた。
青空天井は目が覚めるのが早い。

それからお茶を飲んだり朝食をとったり、救援物資を配る準備をしたり。そうこうするうちに9時半になると山地の人々が続々とやってきた(意外に時間に正確だ)。

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断熱マットを配布しやすいようにあらかじめ適当な長さに切っておく。

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けっこう盛況だ。

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チベット医学臨時診療所

壊れたロッジの隣に建っている仮設住宅で、アムチが臨時診療所を開いた。チベット医学伝統の脈診をする。

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この住宅は竹を細く切った骨組みにビニールシートをかけただけで、風通しが悪く、かなり暑い。アムチも汗をかきながら診断している。1人1人、脈を診て薬の調合をする。それを待って何十人もの行列ができていた。

チベット医学の漢方薬と、日本から送られた薬を手にする女の子。

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米袋を背負って家路につく

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米袋と断熱マットはどちらも嵩張るから、一度に両方とも背負って帰るのは難しい。いろいろ検討して、2回に分けて持っていくことになったようだ。

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断熱マットを有難そうに受けとる人が多かった。
これがあるとないとでは、夜の寝心地がまるで違う。

12時頃にほぼ終了。
昼ご飯の準備や洗濯がはじまる。

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ロッジの裏を流れるボテコシ。その名は「チベット渓流」という意味で、チベットから流れてくる。

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流れの半分をふさぐ、5階建てビルサイズの大岩は、対岸の土砂崩れで落ちてきたように見えるが、実は此岸の上方から音を立てて落ちてきて、ロッジの50m横を抜けて川に落ちたのだそうだ。
こんな大岩がぶつかったらロッジも経営する家族も消し飛んでしまうところだった。

シャブルベシからくるこの道は、北へ数km行けばチベットとの国境に至る。ときおり、中国武装警察工兵隊のジープやブルドーザーが通る。ドゥンチェ近くの地崩れも中国武装警察が修復したものだそうだ。

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こうした中国の援助活動は、急速に道を直してくれて有難い反面、中国の発言力の増大やネパール政府の不甲斐なさが強調されて見えるので、ネパール人にも複雑な受け止め方をされている。

中国との国境を見に行く

車でしばらく走るとネパール最後の村ティムレが見えてくる。

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奥に見える山は中国領で、その裾に中国のイミグレがある。

ぼくらは国境近くまで行きその大きな建物を肉眼で見てきた。ネパール-インドのようなオープンボーダーと違い、ネパール-中国の国境は厳めしい。山奥にしては異常に大きいイミグレの建物が中国人の尊大さを感じさせるからかもしれない。

中国がチベットを侵略・併合する以前は、この道はチベット人が自由に往来していたのだが、現在では中国政府によって厳しく交通が制限されている。

ティムレの女の子。

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ティムレにもゲストハウスが何軒かあった。
この村はランタン トレッキング のルートから離れているのだが、丘陵を歩いて楽しむトレッカーも多いのかもしれない。

緊急援助の時期は終わった

国境近くに住むチベット人は別として、ラスワ地方でも自動車道路に近い村々では米や塩などの食料援助は既に行き渡っていた。それどころか、各援助団体は横のつながりがないため、同じ村に複数の援助が入って米袋がいくつも渡されることもあるようだ。

野菜が採れる季節になったこともあり、ある村では震災前よりも食料が豊富になったという声を聞いた。

いくら食料が豊富でも、住む家がなくては暮らしが立ちゆかないが、自動車道路が通じている地域ではすでに緊急援助の時期は終わり、今後は別の援助の仕方を考える時期になったといえる。

ただし、ネパールでは自動車道路から徒歩数日の距離にある村が少なくない。そうした村には援助はなかなか届かないし、届ける方法も簡単ではない。課題が大きすぎて小規模な民間ボランティアでできる範囲を超えている。アムチたちチベット人たちも緊急援助活動はこれで終了するそうだ。

というわけで、カトマンドゥへの帰路についた。