毎月海外へ飛ぶぼくが、成田空港建設反対運動に参加していた黒歴史

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かつて千葉県成田市で、空港建設反対運動が激化していた時代がありました。

1970年代には機動隊と反対派が激突してけが人が続出し、火炎瓶が飛びかい、ときに死者もでました。左翼が自作爆弾を東京丸の内で爆発させて、通りがかりの人を何百人も死傷させていた時代です。70年代の日本は荒っぽかったのですね。成田市でもいつ爆弾テロが起きるか分からなかったようです。

けれども、1980年代になると時代の空気が変わり、空港反対運動はすっかり下火になっていました。空港反対派が物騒で迷惑なテロ活動を繰りかえしているのですから、運動が民衆から支持されなくなったのは当たり前のことでしょう。

成田空港の滑走路と第二ターミナル

空港反対運動に参加したら

ぼくは、日芸の学生だった1980年代後半に、成田空港反対運動の人に誘われて空港反対闘争に何度か参加したことがあります。

当時はドキュメンタリー写真に興味があったので、よく報道のモチーフになっている反対運動の現場に行ってみたかったのが主な理由です。国に田畑を取りあげられた農民にシンパシーを感じてもいました。農家にとって苦労して開墾した畑を失うのはさぞ苦しいことに違いないです。

反対派が用意したバスは、空港ターミナルビルから離れた農地で停まります。ドアから出たらヘルメットとマスクを渡されました。ヘルメットは警察と殴りあうときに頭を守るために必要。マスクは顔を隠すために必要です。実用的な定番ファッションです。カメラは危険だから持たないように、ということでした。

それでは目的と違うので残念なことですが、まずは現場をこの目で見ることから始めることにしましょう。

デモは、行進しながらシュプレヒコールします。ぼくが参加したデモ隊は「空港建設に反対するぞー」「権力を粉砕するぞー」とみんなで叫んでいるうちはいかにも反体制デモらしい姿で、やってる感があふれるものでした。が、そのうち「××派を粉砕するぞー」と別の反対派の非難を始めました。

現場では反対派同士がののしりあっていた

当時、空港反対運動は方針の違いから二派に分裂していたのです。

北原派と熱田派といったと思います。ぼくはこのどちらかのデモに参加しました。どちらの派だったのかは覚えていません。たまたま機会があって参加しただけで、方針の違いを吟味して選んだわけではないからです。そもそも運動が分裂していたことも現地に来るまで知りませんでした。

そしてデモ行進は、どちらかというと横暴な国家権力を批難するよりも、対立する反対派を非難するシュプレヒコールの方が多い有様で、これには違和感を覚えました。

だってね、本来なら力を合わせなければならない反対派同士がいがみあっていては、目的の達成ができるわけがありません。それどころか運動をまとめる力量のある人がいなくてさらに分裂をくりかえしているらしいです。

相手派の問題は何かを聞いたら、丁寧に説明してくださいました。それは確かに非難に値する、説得力があるものでした。だからといってその説明を鵜呑みにもできません。対立する両者の話をきちんと聞いてからでないと、判断できません。ぼくはたまたま一方の派に参加しているだけで、仮にぼくが参加したのが相手方の派だったら、そちらの説明にも説得力を感じるかもしれないからです。

ともあれ、横暴な国家権力を批判するならともかく、反対運動同士でののしりあっている現状に共感できないし展望もないので、じきに参加をやめてしまいました。

反対するための反対運動

後になって分かったのですが、左翼運動とはこのように分裂を繰りかえすものなのだそうです。団結をいつも口にするわりには決して団結することはありません。というのも左翼の人たちは正義は自分だけにあると考えているから他の考え方を許容することができないのだそうです。

人民のために行動している筈なのに人民の支持を得られないのは、そのせいでしょうね。そして、自分を支持しない人民を愚民と見なしています。

それから「何かに反対すること」が大好きみたいです。先日のことですが、共産主義にシンパシーを持っているという人と話をしたら、政治の現況を非難するのはいいのですが、家族や親戚への個人的な非難が多くて辟易しました。建設的な批判ではなく、非難をしているんです。反対するために反対しても何も生みださないですけどね。

現在の国会をみても、反対ばかりしている政治家にものごとを実行する力がないことがよく分かります。

国際社会の変化から取り残される成田空港

その後1990年代になると、国際的な航空環境が激変します。

シンガポールのチャンギ空港、韓国のインチョン空港をはじめ、滑走路を6本も擁する大空港が周辺国でつぎつぎと開港しました。上海浦東国際空港の巨大さも凄いです。圧倒されます。

いずれもアジアのハブ空港を目指すという国家戦略のもとに建設されています。それなのに、日本の成田空港ときたらたった1本の滑走路でやりくりしていたのです。

成田空港第2ターミナルのすぐ前に反対派の農地が広がるシュールな光景2002年にB滑走路が未完成のまま暫定運用開始した。2020年になっても未完成のまま
成田空港敷地内の反対派の農地滑走路へ向かう旅客機の両側には農地が広がっている(上図の白円内を拡大)

2010年代になってからはインバウンドが増えて、さらに環境が変わりました。外国人が一年間に何千万人も日本を訪れるなんて20世紀には考えられませんでした。すごい変化です。しかし成田空港反対運動はいまも活動家が続けていて、計画された3本の滑走路はなんと開港から40年経った今も未完成です。

世界の潮流をまったく無視しています。グローバル化の時代に、日本人同士が反目し合っていては変化に後れを取るばかりです。明治維新を実現した江戸時代末の日本人の方がよほど国際社会に敏感だったのではないでしょうか。

反対派が土地を所有している東峰神社機内の窓からも反対派の土地が見える。B滑走路をふさぐ東峰神社

もしぼくが学生時代に成田空港反対運動の現場に行かなかったら、左翼運動の本質がわからないまま、ぼく自身も国際環境の潮流から取り残されて21世紀を生きていたかもしれません。ああそんなことがなくてよかった。

やっぱり、現地に足を運んで、この目で見て、感じて、自分の頭で考えることは大切です。さよなら左翼。

などと20世紀の想い出にふけりながら、今日もまた成田空港から飛行機に乗ってバリ島にやって来ました。職業にしている写真は、現場を訪れないと撮れません。毎月、こうして海外へ飛んでいます。

飛行機が着陸する

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Posted by ariga masahiro