「写真は真を写す」という。それは本当のことなのだろうか ←違います

撮影機材

「写真は真を写す」と言われている。

その一方で「デジタル写真は修正されるから真は写らないよ。女性モデルのフェイスもボディも実物と写真は全然違うよ。」ともよく言われている。

この種の話が上滑りしやすいのは、「真」が何を意味するかが定まらないまま話を進めているからだと思う。大概は、真実と事実という、異なる概念が混同されて話している。モデルのボディをまったく修正しないで発表すれば事実が写っているかもしれないが、そこに「真実」が写っているとは誰も思わない筈だ。

では、真実とはなんだろう。

漢字の字面をみれば、真実とは「単なる事実を超えて、特定の視点によらない事実そのものの中身」という深い意味が感じられる。しかし、そういうことがありうるだろうか。

物事を認識するのは人の意識がすること。そして意識は人生や環境によって作り上げられる。感覚器官や身体能力の違いもあって、人によって物事の感じ方や受け取り方は大きく違う。

人はそれぞれ自分の視点でしか物事を見ることができない。「特定の立場によらない」「不偏不党の」視点で物事を観ることができないことは明白だ(そう努めることはできる)。

できないことをできるかのように思い込むと、議論が上滑りしやすい。「写真は真を写す」という誤解はそのひとつだ。

フォトグラフの語源はギリシア語の
「光 photo」「描く graph」にある。

要するにフォトグラフとは陰影を化学反応で紙に定着させる仕組みのことだ。だからフォトグラフは、西洋では光の濃淡で描かれる絵画だと受けとめられている。

日本人でも、プロのカメラマンは照明を駆使して人物や商品を撮影する毎日を送っているから、写真は光が写るものだということはイヤというのほどよく分かっている。1万人のプロに訊いても「写真は真を写す」などと答えるおっちょこちょいはまずいないだろう。いたとしても片手で数えられるほどだろう。ちなみにフォトグラフは、中国語では「照相」と書き、照らし出される相(すがた)という意味だから、英語とほとんど意味は同じ。
日本で「写真」と書くのは誤訳の一種かもね。

こうしてみると、「写真は真を写す」などとトンチンカンな話題をしているのは世界中で日本人だけみたい。

ところで「事実は1つしかないが、真実は複数ある」ともよく言われる。

黒澤明の名作「羅生門」を観たことがあるだろうか。
ひとつの出来事に対して、三人の人物がそれぞれ相矛盾する証言をする。そのどれかひとつが正しいとするならば他は虚偽になる。三者三様の証言は、そのどれもが「真実」にみえる。羅生門は「世の中はすべて主観である」という真理を、誰にでも分かりやすく映像化した作品だ。もしまだ観ていなければDVDでどうぞ。

真実と事実は違う

そういうこともあって、ぼくは写真とは「写心」と書くこともできると思う。

真実と事実は違う。

写真には撮影者の心が写しだされるからだ。決して対象の真実ではない。
フォトグラファーが優しい心でいれば、優しい写真になる。あさましい心であれば、あさましい写真になる。
ぼくの経験だと、この写真を撮ればお金になるなと思いながら撮った写真は後から自分でみても本当につまらないものだった。浅ましさが写ってしまったんだね。

だから写真は結構怖い。
テンションが低いときは、それが写ってしまう。ぼくは睡眠と運動はきちんとして、テンションが下がらないように努めている。

というわけで、実は、写真には「真が写る」のだ。真とは人の心だ。そしてぼくは「写真には真が写る」と思っている、世界でも数少ないフォトグラファーだ。

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