支那、シナ、それともチャイナ? 中国を何と呼ぶべきか

中国

インドネシアでは中国のことを「チナ」と呼ぶのだが、それをやめようという報道があった。もともと日本人が中国の蔑称として「支那」と呼んでいたのが第二次大戦中にインドネシア語に取り入れられて「チナ」と言うようになったので、ひどいことだからあらためるべきだと首都ジャカルタの副知事が語ったそうだ。

奇妙な話だ。というのも中国を「チナ」と呼ぶのはインドネシアに限らない。スペイン語でもオランダ語でも「チナ」だ。

アルファベットで書くとスペイン語でもオランダ語でも、そして英語でもCHINAと綴る。CHINAを英国人はチャイナと発音するし、ポルトガル人なら「シナ」と言う。つまり世界の人々は中国をそれぞれの発音で「チナ」と呼んでいるのだ

では、世界の人々はなぜ中国をCHINAと呼ぶのだろうか?

「支那」は由緒あるサンスクリット語が由来

「チナ」の語源は、実は古代インドにある。

紀元前3世紀、秦の始皇帝が周辺5カ国を滅ぼして巨大な帝国をつくった。この国が(チン)ということを伝え聞いた古代インド人は、サンスクリット語でチーナと呼んだ。その後、チーナの情報はシルクロードを通じて世界中に伝えられ、後にポルトガル人は「シナ」と呼び、イギリス人は「チャイナ」と呼ぶようになった

サンスクリット語は仏教経典が書かれた言語でもある。仏教を学んだ古代中国の僧は、サンスクリット語の経典を漢訳する際に「チーナ」を音訳して「支那」と書いた。漢字の「支那」という表記はほかならぬ中国人自身によって定められたのだ。

ここでようやく話が日本に関係してくる。8世紀の日本人が仏教を本格的に学びはじめると、漢訳経典に「支那」という単語があることを知った。

この頃は、「支那」は仏教書籍にのみ登場する学術用語だった。日本でもっとも古い「支那」の表記は、弘法大師空海の著書にあるという。

その「支那」が一般の人の口に登るようになったのは、千年後の江戸時代のこと。

儒学者の新井白石が、日本に潜入したイタリア人宣教師を尋問した際に、イタリア人がチーナと呼ぶ国を報告書に表記するために、仏典から「支那」の字を拝借したことによる。

「支那」は便利な言葉だった。大陸では、17世紀に明が倒れて清が成立していたが、このふたつは別の国で連続性がない。清は満州人が支配する国で、漢人は統治されているだけだ。また明の前は蒙古人が統治する蒙古(元)であった。大陸を支配するこれらの国々に、時代を超えて共通する呼び名がなくて不便に感じていたところへ、ざっくりと領域を表す「支那」が使われ始めた。

中国人といえば

1912年に清国が倒れ、中華民国が成立すると、ここで初めて略称の「中国」という呼び名がなされるようになる。これ以前、大陸において「中国」とは長江と黄河に挟まれた地域を表していただけで、国名ではなかった。

中華民国が成立しても、日本人は、かの国の人を中国人とは呼ばずに「支那人」と呼び続けた。というのも日本人にとって中国とは日本の中国地方を指す言葉だからだ。中国人とは岡山県や広島県人のことだった。

中国新聞の一面中国新聞の本社は広島県にある

日本では、平安時代から中国地方を「中国」と呼んでいた。そこへ、海の向こうの人が「中国人」を自称しはじめたからといって彼らをそう呼んだら混乱してしまう。地名の呼び方はふつう慣習に従うものだ。自然なナリユキとして大陸の人を「支那人」と呼んだし、当の支那人もそれを受けとめていた。

中華民国建国の父孫文は、青年時に自分の国籍を支那と書き記したことがあった。孫文は、支那が時代を超えてこの国を表す言葉だと認識していたからだ。それゆえ現在でも台湾では大陸を支那と呼ぶことがままある。支那という言葉にはこのような歴史と意義がある。

余談だが、20世紀初頭の支那人は、日本人を「東洋人」と呼んでいた。大陸からみて東洋にある列島の住民だからだ。

悠久の歴史

「支那」という呼び名からは悠久の時間と空間、歴史と文化が感じられる。

「中国」なんてたかだか100年前に登場した呼び名よりも、しかもほぼ共産中国を指す名よりも、「支那」の方がよっぽどこの国を表すのにふさわしい風格がある。それなのに、何故か現代では差別語扱いされている。

それはどうしてだろう?

“支那は日本による差別語"説を主張しているジャカルタ副知事は、華人だという。

もともとインドネシアでは日本への好感度が高い。そんな国で日本悪者説を主張する華人のなりふり構わぬ戦術には呆れる。白紙状態のインドネシア人がこれを聞いたら、本当に差別用語なのかも、と擦り込まれてしまうかもしれない。

“支那は差別語"説は、あらゆる手段で日本を貶めようとする中国共産党の宣伝のひとつだ。また日本共産党も同じように宣伝している。歴史的事実を踏まえていれば「支那」が差別語ではないことが理解できるし、台湾人はそれが分かっているいるから今もしばしば中国を「支那」と呼んでいる。

「ポルトガル人がシナと言うのはよくても日本人が支那と言うのは絶対ダメ」では訳が分からない。見識ある人がこんな主張を理解できないのは当たり前のことだ。

美しく、歴史のある、孫文も好んだ「支那」という呼び名が使いにくくなってしまった現在の状況は、シルクロードに魅了されるものとして残念だ。それは当の中国人自身にとっても文化的損失だ。

参考文献

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Posted by ariga masahiro